奇跡は感情的な時間の外に存在する
奇跡は感情的な時間の外に存在する。
愛と癒やしは過去の感情の外に存在する。
過去の感情こそが、われわれの病気、性感染症、そしてそれらの病気のサイクルを存続させているのである。
さて、あらゆる感情的な体験について言えることは、われわれがその中毒になったなら、毎回その体験を少し変えることがわれわれにとって重要になる。
なぜなら、われわれはその感情の中毒になっているからだ。
われわれはその体験を少し変える。
それはセックスかもしれないし、痛みかもしれないし、支配かもしれない。
中には、これらすべての中毒になっている人々もいる。
彼らにとっては、自分と一緒にいる人間が誰であってもかまわないのだ。彼らはただ自分が中毒になっている感情を欲しがっているだけだ。
ここで、私があなた方に言えることがある。
私はいまそれを言っておくが、あなた方は自分の感情の中毒になっている。
われわれはワインやパイプタバコのことなど心配する必要はない。
もっと深刻な問題があるからだ。
これは、「マスターになって永遠に生きることをわれわれが望んでいる場合に限って」ということだが、われわれがそれを望んでいるなら、われわれは深刻な問題を抱えていることになる。
仮にわれわれがそれらの事柄を望んでおらず、気持ちよくなることに没頭したいなら、われわれはただ普通の人生を生きるだけだ。
つまり、普通に生きて死ぬだけであり、税金を支払うだけだ。
さて、奇跡の話だ。
感情は、心の中で創造したものをわれわれが体験するためのものだった。
だが、気持ちよくなったり、嫌な気分になったり、拒絶されているように感じたり、自分には価値がないと感じたり、罪悪感を感じたり、不足を感じたりすることにわれわれは夢中になり、フィーリングにのめり込んでしまった。
われわれは自分自身にそこから抜け出すよう言い聞かせることさえできない。
そうなると、われわれは、病気へと向かっていく肉体にすぎない。
これは本当のことだ。
われわれは「保存可能」ではないのだ。
あなたがどう思おうとかまわない。
私の前で馬鹿馬鹿しい同情劇など演じないでほしい。
われわれは最も深い同情が何であるかを知っている。
最も深い同情とは、この人生でわれわれ自身がそれを選択したということだ。
つまり、自分が知っていることに従って生きるのではなく、自分のフィーリングに従って生きることをわれわれは選択したということだ。
自分の内面のどこかで、われわれは自分が崇高な存在であることを知っている。
あなたはいつそうなることを選ぶのだろうか?
あなたがこれらの感情の分子を生産し続けるのをやめ、それらを「生きる理由」とみなすのを本気でやめるときだ。
生きる目的は、あなたが何を食べるかといったこととは関係がないし、あなたが誰を誘惑するかといったこととも関係がない。
それは、自分以外の誰かとは関係がない。
「脳から体へ、そして体から脳へ」という分子の循環という形で感情として測定できるどんな快感よりも遥かにすばらしい何かのために、あなたは生きているのだ。
あなたは肉体の感覚以上の存在にならなければならない。
もしも奇跡を起こしたければ、もしも(肉体的にでも精神的にでも)自分を変えたければ、過去の感情の集積である「感情体」から、今の自分を切り離すことです。
それは、今までの思考と感情のパターンから抜け出すということ。
そのためには「観察者」になる必要があります。
観察者とは、自分は崇高な存在であると知っているもう一人の自分です。
「これは、崇高な自分に相応しい思考と感情と行動だろうか?」
静かな声でいつも私たちに問いかけている、観察者そのものに私たちがなることです。
「奇跡は感情的な時間の外に存在する」
私は、かつて中毒になっていたフィーリングの声に従うのではなく、自分が崇高な存在であると知っている観察者の声に従って生きていきたいと思います。
今日の引用は『ラムサ 愛という名のエリクサー』より
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