優しい社会

少し前にご紹介した『ポリヴェーガル理論入門』より。

私たちの文化における教育や社会化のプロセスは、環境に対する身体の反応を無視させようと躍起になっているように見えます。

学校の教室にいる子供たちを観察したら、様々な行動に気づくことでしょう。

安心して落ち着いて座っていられる子供もいれば、同じ環境にいても危険を示唆する信号を察知して、過度の警戒と思われる行動をとっている子供もいます。

さらに、教室において、慢性的に危険の合図を検知しようとしている子供は、同時に学習困難を抱えていることが多いのです。

「安全である」と感じている子供は、教師に注意を向け効率的に学習できます。そうすると、従来の学校教育の考え方では、「きちんとできる子もいるのだから、あなたもきちんとしなさい」という姿勢で、すべての子供に一律に成果を期待します。

私たちの社会では、少しでも違う刺激が加わると、行動面で、あるいは内臓面で敏感に反応してしまうことは、「悪い」ことであり、欠陥があるとして扱われます。

こうした道徳観は、発達的に「障碍がある」、精神的に「遅滞がある」、または注意力に「欠如がある」というレッテルをつけることでさらに強化されています。社会は、子供たちは自発的に行動を抑制できるものだと考え、それができないなら欠陥があると見なされます。

表面に現れている個人差の基には、こうした反応を起こす神経系の基盤があることを理解しようとせず、また、こうした反応は不随意のものであるということも理解せずに、子供たちの行動は良くないものだと決めつけてしまいます。

しかし、教育の現場で、それぞれの子供が持っているユニークな感受性を大切にすることも可能なはずです。しかし、そういったことは滅多に起こりません。そして、結局私の同僚たちの多くが働いている、トラウマ治療の領域へと帰結していきます。


私が小学生の頃。

クラスで落ち着いて授業を受けられない生徒は、担任の先生の真ん前の席に移動させられていました。

そして、その生徒は、先生からしょっちゅう注意をされながら授業を受ける。

もう40年近くも前の話です。

今の教育現場でそんなことはもうないでしょうが、集団のペースに「適応できる子」と「適応できない子」がいるのは今も変わらないと思います。


これは学校だけではなく、大人が生きている社会でも同じ。

私が会社員をしていた頃にも、仕事を円滑に進めるための社内のコミュニケーションや、クライアントとの交渉に上手く適応できない社員はいました。

「言わなくてもわかるだろう」がわからない。空気が読めない。忖度ができない・・・

そういう社員は「仕事ができない奴」のレッテルを貼られ、やがて退社していきました。


今思えば、教室で落ち着かない同級生も、仕事ができないと言われていた社員も、学校や会社が「安全」を感じられない場所だから、適応できなかっただけなのだと思います。

正確に言うと、思考意思ではなく、その人の神経システム「安全」とは感じなかった。

だから適応できなかった。

その人に相応しい場所ではなかったんですね。

もっと言うと、「その人が生きられる場所ではなかった」ということです。

そう。

かつての私もそうで、結果、今の私があります。

肉体的な刺激に例えると、わかりやすいかもしれません。

多少の痛みなら我慢できる人もいるし、そうでない人もいる。

熱いお茶を平気で飲める人もいるし、猫舌の人もいる。

辛い料理が得意な人も苦手な人もいます。

それと同じように、特定の環境を「安全」と感じる「閾値」も人によって違います。


以前のブログにも書いたように、意思思考ではなく自律神経のシステム「安全」を感じている時に、哺乳類特有の新しい迷走神経(横隔膜より上の臓器を制御)が優位に働き、私たちが社会で円滑に交流することを可能にします。このモードだと、集団の中で学校の授業も聞いていられるし、その人らしい他者とのコミュニケーションも図れます。

ところが、自律神経のシステムが「安全」を感じられなくなると、交感神経が作動して「戦うか/逃げるか」の準備に入ります。このモードだと、授業中にじっとしていられなくなるし、他者と安全に交流することも難しくなります。ビジネスの現場でも、クライアントの意図を読み取ることは難しいでしょう。最悪の場合、相手を怒らせてしまうかもしれません。

更に、戦うも逃げるもできない場合は、最終的に爬虫類の古い迷走神経(横隔膜より下の臓器を制御)が作動し、肉体をシャットダウンさせます。このモードに入ると、自分で自分の身体を制御することができなくなります。思考がフリーズしたり、意識が遠のいたり、心拍がおかしくなったり、お腹が痛くなったり、声が出なくなったり、動けなくなったり、お漏らしをしたり。

繰り返しになりますが、これらの自律神経のスイッチをコントロールしているのは、私たちの(意思や思考)ではなく身体(神経システムや内臓)です。

だから、自分の身体の反応を自分の意思でコントロールできなくても、「なんでこうなった?」を思考で理解できなくても、仕方がないんですね。「私の神経システムと内臓は正しい判断をして、この身体反応を起こした」という理解さえあれば、それで充分。自分を責めることも恥じることもありません。


しかしながら、そんな身体の感覚は無視して、「みんなと同じように学校へ行きなさい」「勉強しなさい」「会社へ行って仕事をしなさい」「もっと知識を増やしなさい」「常に新しい情報を仕入れなさい」「他者から高い評価を得なさい」というのが、私たちが生きている社会です。

学校では子供たちをまるで学習する機械のように扱っています。

また、学校教育の成功は、その機械にどの情報をプログラミングできたか、ということで判定されます。

一人一人が内臓状態を調整することの大切さは顧みらていません。

実はこれは学習を促進し、社会的行動を望ましいものへと導く前提条件であり、神経生理学的基盤であり、人としての必須の能力なのです。

ところが、内臓状態を調整する力を育むことは、学校のカリキュラムには取り入れられていません。


今日引用した部分は主に学校教育について述べられていますが、「内臓状態を調整する力を育む=安全を感じる」ための最も重要な基盤は「家庭」だと思います。

夫婦がそれぞれに安全を提供できているか?

親が子どもに安全を提供できているか?

兄弟姉妹がそれぞれに安全を提供できているか?

セコムと契約するとか、スマホを持たせるとか、損害保険に入るとか、ヘルメットを被らせるとか、車で送迎するとか、そういうことではありません(笑)

「安全」とは、そういう物理的なものではなく、相手への「尊重」から生まれます。

子どもや夫や妻や兄弟姉妹を、人として「尊重」しているかどうかです。

「尊重」とは、「今この瞬間、私に愛があるだろうか?」と自分に問うてから、相手に言葉を発し、行動することです。

「私が今話しているこの言葉に愛はあるだろうか?」

「この子の話を、この人の話を、私は愛情を持って聴けているだろうか?」

「私は相手の素晴らしい面をいつも見ているだろうか?評価や批判やアラ探しばかりしていないだろうか?」

「私が相手にして欲しい、なって欲しいと望んでいることの奥にある思いは、愛だろうか?優しさだろうか?自分の都合だろうか?それとも世間体だろうか?」

「そもそも、私は私自身を尊重しているだろうか?」

家庭の中が「尊重」で溢れていれば、夫婦も親も子も兄弟姉妹も、自分の中にある「安全」を基盤に、自分に相応しい場所で生きて行くことができます。

家庭に尊重がなければ、本当の意味で持続はできない。

社会もそうですね。

私たちが生きているこの宇宙には、持続可能なものしか残っていきません。


これからの未来は、一人ひとりが自分と他者を尊重し合う、持続可能な「優しい社会」になっていくだろうと私は思っています。



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