鏡の自分と見つめ合う
何の価値判断も持たず、ニュートラルに人を見る。
そこには、良いも悪いも、正しいも間違いも、好きも嫌いもない。
その目には、他者から自分の心を見られることに何の怖れも罪悪感もなく、ただ静かな平和だけがある。

自分がいつもどんな目をしているのかは、鏡の中の自分としばらく見つめ合うとわかります。
鏡に映った自分を見て、「この目と鼻が嫌い」とか「ここのシミとシワが」とか一切ジャッジをせず、自分の目だけを静かに見つめ続ける。
やがて、鏡を見ている私に何がしかの感情が生まれたら、鏡の中の私がその感情をそのまま映し出してくれます。
誰かとじっと見つめ合うって、相手が鏡の中の自分でも最初はちょっと照れたり不安になるものです。ちょっと視線をそらしたり、まばたきの回数が増えたり、目をキョロキョロさせたり。気持ちが落ち着かなくなる。
そういう自分も、鏡の中の私は見せてくれます。
「白樺さんのブログに書いてあったように、ちゃんと見つめ合ってみよ」と思うと、その「ちゃんとしよ」の時の目が鏡に映る。「こんなんしてて、意味あんのかなぁ」とか「いつまですればいいんやろ」「用事せなあかんのになぁ」の時の目も、鏡の中の私はそっくりそのまま見せてくれます。鏡の中の私には、一切隠し事ができない。
鏡の自分と見つめ合っていると、「『目は口ほどに物を言う』は、ほんまにその通りやなぁ」と感心します。
そんなことを考えつつ鏡の中の私としばらく見つめ合っていると、見つめ合うこと自体に慣れてきます。
鏡の中の私に心の中身を全部見られていることにも抵抗がなくなってきて、自分の思考と感情が静かになっていることに気づく。
「思考も感情も動いていないニュートラルな目って、こういう感じなんや」
これをちょっとでも経験できたらオッケーです。
「あれ?鏡の中の私が私なのか、鏡を見ている私が私なのか?」
となるぐらい自分と見つめ合えたら、更に心地よくニュートラルに浸れます。
この感覚はちゃんと記憶されるので、誰かと接する時に自分がニュートラルな目をしているか、そうでないかがわかるようになります。

ニュートラルな目は、他者をジャッジしないし、自分もジャッジしない。目の奥には、過去も、秘密も、隠された意図もない。
その目で見られた人は、生後間もない赤ちゃんや動物と目を合わせた時のことを思い出すかもしれません。
そして、その目は他者にも伝染します。
ニュートラルな目をした人がいる場所は平和です。
究極にニュートラルな目は、スピリットとマインドと言動が一致している人の目です。
私もいつかはそういう目を持ちたいと思います。