鏡の自分と向き合う

時々お客さまに、「鏡の自分と向き合うこと」をオススメしています。


鏡の中の自分の目は、今の私たちを正確に映し出してくれます。

私たちの中にある卑屈さも、虚栄心も、怒りも、虚しさも、怖れも、悲しみも、安心も、喜びも、静寂も、あらゆる感情や思考をそのまま見せてくれる。

そして、私たちが普段どんな目をしているのかも教えてくれます。


鏡の中の自分の目はどんな目をしているでしょう?

幼い子どものような目でしょうか?

それとも、疑り深い大人の目でしょうか?


かつて私たちが子どもの頃に持っていた、あの眼差し。

何の不安も怖れもなく誰の目の中でも覗き込めた、世界の全てをあるがままに見つめられた、あの無垢な眼差し。

鏡の中の私がそういう目で見返してくれる日が来ることを楽しみに、私は鏡の中の自分と向き合っています。


ラムサの言葉です。

「たくさんの輝きを放つもの」としての愛を映し出しているものは、本質的に鏡に映った自分自身である。

われわれがこの鏡の中を覗き込むとき、われわれはもうひとりの存在を見つめている。

だが、その存在は無意識のうちに、われわれが鏡の中に見る自分自身の姿を見せてくれている。

その存在が笑い、われわれも笑う。その目が踊り、われわれの目も踊る。そして、われわれが全身で一体となり、触れ合うとき、われわれを引き離す唯一のものは、「これは鏡に映った自分自身の姿が見せる幻である」という事実だ。

そのとき、われわれはすばらしい輝きの中にいる。

これはどういうことだろうか?

鏡に映った像は、決して不誠実にはならない。鏡に映った像は、決して嘘をつかない。鏡に映った像は、ひとりでに動き出すこともない。

われわれがその姿を見つめるとき、それはわれわれをしっかりと見つめ返してくる。

さらに、われわれが背を向けて、その姿がまだそこにあるかどうかを確かめるために肩越しに振り返っても、それはわれわれのことを見つめ返している。

それは過去を持たず、未来も持たない。

それは、われわれの喜びの瞬間におけるパートナーであり、原初の神聖な場所を祝う瞬間におけるパートナーである。

鏡の中に見えるものを愛しているとき、われわれはその鏡と(動物のように)性交しない。われわれは鏡をレイプしない。われわれは鏡を虐待しない。

われわれは鏡に魅了されるのだ。それはすばらしいことである。

そして、「この人間が鏡なのか、それとも自分のほうが鏡なのか?」とわれわれが問い始めるとき、つまり、われわれがそれくらい鏡と親密になったとき、われわれは愛を見つけたことになる。

なぜなら、われわれはその関係の中に、自分の喜び、自分のありのままの姿、自分の輝き、自分の美しさ、自分の幸せを見つけたからだ。



鏡の中の自分と見つめ合うことで、私たちの目はあの頃の無垢な目に近づいていきます。

思考も感情もない、純粋な目。

過去も未来もない、「今」にとどまる時間。

このブログを読んでくださっているみなさまも、そういう時間を持ってみてください。


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